















1月号はJR列車内で
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このホームページは車内月刊誌プリーズをもとに制作されています。
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| 出逢いに感謝し、ますます笑売繁盛。
〜三遊亭 歌之介インタビュー〜 |
2005年6月 |
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―頂いた名刺の肩書きには、「私は笑売人」と書かれていた。噺家(はなしか)は人を笑わせてナンボの商売。高座で「笑っている人は元気です。皆さんも笑って元気になりましょう!」と呼びかけ、鹿児島弁を織りまぜた商売道具の新作落語で客席を爆笑の渦に巻き込んでいるのが、三遊亭歌之介師匠だ。
鹿児島県・大隅半島に生まれた賢(さとし)少年は子どもの頃から運動神経バツグンで、中学から始めた軟式テニスでも、すぐに地元で注目される選手となった。中学2年で母親が働く大阪に転校することになるが、高校でもインターハイを目指すテニス少年だった。
「当時は反抗期だったんでしょうね、母親とまったく口を利かなかったんですよ。用事があるときは筆談です。それでいて鏡に向かっては、自分の顔を見ながら一人で延々と喋っていた。これには、オフクロも相当参ったみたいです」
―大阪に来てからは、テニスのほかにもう一つ夢中になったものがあった。大阪のテレビ局でやっていた落語放送である。ある日、クラスで文化祭の寸劇をやることになり、賢少年が台本を書くことになった。これが、全校生徒に大いに受けた。初めて人を笑わせる快感に目覚めたこの時から、落語家を志すようになる。高校卒業後上京し、なかば押しかけ気味に三遊亭圓歌師匠に入門。ところが入門して間もなく、言葉の壁にぶつかることになる。
「師匠から稽古をつけてもらっている最中に『お前の訛(なま)りは鹿児島や大阪が混じっていて、どうにも難しいな』と言われまして。少しでも江戸っ子の喋りを勉強しようと浅草の居酒屋に通ったりもしました。でも、生まれてずっと身についた訛りが抜けずに、なかなかうまく喋れなかったんです。その頃から、古典落語っていうのは、もう自分と別の世界なんだと思うようになりました。それなら逆手にとって、自分の訛りを生かした落語をやってみようと」
―こうして古典の修業を積む傍ら、新作落語で頭角をあらわし、30歳を前にして晴れて真打ち昇進を果たす。入門9年目という、異例のスピード出世だった。
真打ちになってからはたびたび故郷の鹿児島で公演を行い、鹿児島弁丸出しの落語は、どこの会場でも爆笑に包まれた。やがて、その録音テープが出回るようになり、その評判は加速度的に広まっていった。いわば海賊版が一人歩きするようになったのだ。
「阪神淡路大震災の時になにか自分に出来ることはないかと思い、正式にテープを発売することになったんです。千本作ってその収益金を寄付することにしたらあっという間に売り切れて。すると、鹿児島のレコード屋から電話がありまして『予約が殺到しています。すぐに追加を送ってください』ってね。今年で10年になりますが、いまだに売れ続けています」
―現在は東京の寄席で月に10日の高座を務め、残りの多くを各地の公演に費やす。
「今はいろんなことにチャレンジしてまして、今度は船舶免許を取りたいと思ってるんです。いつか自分の船で各地を回りながら、落語会ができるといいですね」
―訪れた町々で観客は師匠の落語に涙を流しながら笑い、そこに新しい出会いが生まれ、笑いの輪が広がる。頂いた名刺を裏返すと、そこには「素晴らしい出逢いに感謝」と書かれていた。
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三遊亭歌之介 |
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本名/野間賢(のまさとし)
1959年鹿児島県肝属郡大根占町(きもつきぐんおおねじめちょう/現錦江町)生まれ。
高校卒業後、三代目三遊亭圓歌に入門。前座名「歌吾」となる。
'82年二ツ目昇進、「きん歌」となる。'85年NHK新人落語コンクール入賞。
'87年入門9年目、先輩18人抜きで真打ち昇進の大抜擢。
初代「三遊亭歌之介」となる。
'91年国立演芸場主催・花形演芸大賞金賞受賞。
'01年には映画『ひっとべ』に初主演する。 |
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